2014年1月15日星期三

 運動能力とおんなじで

 運動能力とおんなじで、十代の半ばから二十代の半ばくらいまでが、きっと読書体力のピークだと思う。もちろん、みんながみんなそうではない。これもまた運動とおんなじで、子どものころにどのくらいその力を発達させたかということによるのだろう。幼少時に読書能力を培った人は、理解だとか共感だとか、まして教養のためだとかで読むのではない、有り余る読書体力を消費するためにがしがし読むのである。だから本の内容やそのなかの一文は、覚えていなかったりする。読んでも読んでないのとおんなじじゃないかと、まさにそういう力業で読んできた私は思う。体力は消費されたけれど、本の中身は身についていないのだ。身についたのは、習慣的に「読む」ということだけ。  反対に考えると、読書体力を子どものころにまるで使わなかった人は、その体力が落ちる三十代、四十代になって、さて読むぞと本を開いても、よほど興味のある本でないかぎり、読めないのではないか。読書なんかより、やるべきことはずっと増えているわけだし。それは、三十三歳までまったく運動をしなかった私が、急に運動をはじめても、めざましく上達しないのとおんなじだと思う。長く運動してきた人の持っている「勘」みたいなものが皆無なのだ。  食べものの好みも大きく変わらないし、体力が落ちたということもさほど感じない私が、四十代になってもっとも実感したのが、読書体力の低下だ。習慣は根づいているから、読む。どこでも読む。風呂でも電車のなかでもひとりの食事中も、どこでもかしこでも読んでいる。でも、遅い。ものすごく遅くなった。うわー、おもしろい、なんてすごい本なんだ!  と思っていても、遅い。その遅さに、まだ慣れない。いつもならとうに読ニューバランス スニーカーみ終えているはずなのに、なぜまだ半分もいかないんだろう、と不思議に思い、ああ、と思い当たる。私、年をとったんだなあ、と。  至るところで、同時進行的に本を読むので、読み終えていない本が家にも仕事場にもある。それを見るたび、かなしいようなやりきれないような気持ちになる。できることができなくなった、という、年をとることの負の部分を直視させられるのだと思う。習慣がなかったら、そのかなしさやりきれなさのあまり、読書なんかしなくなったかもしれない。  スポーツに秀でていた人が、あるときがくんと体力的に追いつかなくなる、そのとききっと私と同じような思いを味わうはずだと想像する。  自分でもちょっと意外だったんだけれど、もっとも読むのがたいへんになったものが、漫画である。  漫画って、読むのはものすごく楽だと思っていた。文字だけの本は読まないけど漫画なら読む、という若い人だってたくさんいる。字がいっぱいあるのは面倒で、絵があるものは楽に読める、と思いこんでいた。  私にかぎっては、そうではなかった。絵と文字と、いっしょに見るのがしんどくなってきた。こんなことになろうとは、夢にも思っていなかった。  仕事の時間を決めず、好きなときに休んで好きなときに働いていた二十代のとき、ニューバランス レディース明日から雨の日が続くと天気予報で聞くと、わくっとした。雨が降らないうちに漫画をたくさん買いこんできて、雨のあいだずーっと、ずーーーーっと読んでいる。至福だった。三十巻、四十巻と続きものの漫画を、二十代半ばまでは古本屋さんを巡ってそろえていたけれど、新刊書店の棚にささったものを、十冊単位で両手でつかみ、レジに持っていけるようになったときは「大人になったものだ」としみじみ実感した。  漫画を読むのがたいへんになったという事実をすっかり忘れ、かつての気分でたくさん買いこんで、未読のまま山となっていくことが、最近多い。これもまた、困ってしまうほどかなしい。  実際に、漫画を読むのには体力や能力がいる、とある漫画編集者が言っていた。その人もあるときにがくんとその体力が落ち、読むのにやたらと時間が掛かるようになり、でも仕事で必要だから、鍛え続けてなんとか持ちこたえた、と話していた。文字と絵をいっぺんに脳みそで処理するのは、文字だけを読むのとは異なる力らしい。漫画好きの子どもが多いのもなんだかうなずける。  そういえば、私は子どものころ漫画を読まなかった。読むようになったのは、十八歳からだ。そうか、子どものころに漫画体力を鍛えなかったから、基礎体力も習慣も、加齢とともに崩れ去っていくのだな。私も、これ以上漫画体力が目減りしないように、鍛えなくてはならん。  若き日の自分が今の自分を見て、驚くことは多々あると思うけれど、「漫画体力を鍛えねば」と課さなければならない自分に、ものすごくびっくりするだろうなあ。それどころか、失望も。

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